2015年2月9日月曜日

何もかも憂鬱な夜に

中村文則『何もかも憂鬱な夜に』 を読んだ。

「何で、思春期ってあるんだろう」
真下は、あの時こうも続けた。
「それって、ただの言葉だろ」
あの時僕は、自分を語り過ぎた恥ずかしさから、そういう話題をわざと軽視しようとした。
「いや、あるよ。……何で人間はこの時期に、混乱しなけりゃいけないのか……、何か、意味があると思わないか? 性欲の衝動が強くなって混乱するって、言うだろ? でも、その他に……」
「そうかなあ」
「うん、人間は、何ていうか、社会的な動物だから。社会的な生物としての、反発というか……。現在あるものとかを、浄化、新しくするために、反発しなけりゃいけないというかさ……。そういう社会的な生物の、衝動……本当はそういう役割が、神というか、DNAに刻まれてるのに、俺達はただの子供とされてる……とか」

面白かったのは、「思春期」についてのこの回想シーンだ。思春期のとき、思春期ってなんなんだよってモヤモヤ思案する。そのモヤモヤが表現されていて見事だと思う。思春期というもの自体もDNAに刻まれているのかもしれないって気がしてくる。

この小説では、主人公が30歳弱になるまでが描かれている。アラサーだとか、「三十にして立ち、四十にして惑わず」などという三十路という年齢だけど、そんな年齢になってもきっと”思春期”の気持ちって続いているんだろうなあと腑に落ちるところが気持ち良かった。

性欲の衝動が強くなって混乱するってことが減っても、代わりに出世欲だとか結婚欲だとか、いろんな欲によって衝動が強くなって混乱するってことはままあることだと思う。

本小説のように30歳間近となっても、 あるいは神聖かまってちゃんの「23歳の夏休み」という曲のように23歳であっても、 思春期のようなモヤモヤはなんだかずっと残るのかあという気がする。

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